世界の反対側で苦しむ人たちのニュースより、
世界の人々の心配も、植木鉢の心配も両方ともができる。
なのに、
自分の植木鉢が壊れてしまったことを哀しんで、
それではいけないと思いながらも、
哀しみが調整できるわけでもなく、
涙はただ、壊してしまった植木鉢のために流される。
そんな人になりたいけれど、心からそれができるには、
少し汚れが目立ちすぎるようになってしまって、
麻痺した自分の心では、
枯れた植木鉢には涙できても、
ニュースの向こうの話に涙することができない。
見知らぬ遠い地で起きたできごとは、
どこか、説明不足のフィクションドラマのような非現実さを持っている。
批判したり同情したり、口では何かできないかなと呟いても、
その事実から得られた感情は非現実に感想する。
本当は、その地にいる人にとっては、ドラマなんかじゃない。
非現実でもなく、れっきとした現実なのに。
それでもやっぱり、
植木鉢が壊れたことの方が哀しいのです。