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   その日、鷹枝翔はとても優雅な気分だった。朝まだ早い冷たい風と、爽やかな陽光。いつもはうるさい時計の針の音でさえ、静けさという贅沢を味あわせてくれるBGMだ。そして何より、昨日給料が入ったばかりで、彼の懐はとても暖かかった。金ばかりが人生ではないけれど、今の世の中、先立つものがないと中々のんびりできないのは事実だろう。
 だが今、彼の懐は暖かく時間もたっぷりあった。昨日は給料前で、ちょっとしたアクシデントもあって、散々な一日だったけれど、その分のお返しがきているに違いない。そう思い込むことにした彼は、とりあえず現在の幸せな状況にひたることにした。机の上のサングラスに日光が白く反射し、コーヒーの香りが外国映画の世界に入り込んだかのような雰囲気をかもし出している。コーヒーカップを手にリサイクルバザーで格安で買ったボロソファーにひっくり返ると、翔はふふんと笑った。
「いい朝だ」
「よくないね」
 ソファの下からだみ声がした。その声は、それまで感じていた翔の高級な夢の空間をぶち壊した。
「私のことを忘れちゃいないですかね?」
「……。せっかく……」
 翔は、こぼさないようにコーヒーを机の上に置くと、ゆっくりとソファから身を起こした。
「せっかく、お前のことも何もかも忘れて人がのんびりしてるって言うのに、水を差すなっ!!」
 彼はソファの下を覗き込むと、そこに潜んでいた「モノ」を無理矢理引っ張り出した。
「うっぎゃああああ!! 暴力反対っ!!」
 騒ぎながら出てきたのは、巨大なドブネズミ(らしきもの)だった。翔は、大の男の両手の平を合わせたよりも巨大なそのドブネズミを引きずり出すと、丸々した相手のたるんだ首の皮をぶらさげた。
「ネズミ駆除の日はまだ先だったかな……」
「なんてことを言うんだ! あんたを連れ帰る崇高な使命を帯びた、このアルテミス・ノーズ・フォン・アンダーグラウンド・サルカス・……」
「お前の長ったらしい名前だか称号だかなんざ、どうでもいい」
 ドブネズミの長い口上をさえぎって、翔。
「お前が高貴な家柄で、俺を呼びに来た使者様だかなんだかのお偉い使命を持っていたとしても、今現在、俺の世界で俺の家の中で、お前はただの『ドブネズミ』なんだぞ」
「ドブなんて失敬な! 私は、数多い種族の中でも特に栄誉あるアンダーグラウンド一族のうち、特に栄誉ある我が国国主からの伝令をおおせつかるような、高貴な血を引いているんですぜ! そりゃあ確かに、あちこちの情勢を探るために働いてきたから、口調はそんなに上品とはいえないかもしれませんがね」
「……」
 大きく嘆息して、彼はこの非現実的な存在をソファの上に放り出した。
「ああ。俺の人生は、何が間違っていたんだろう……。いや、これは夢だ。夢なんだ。給料をもらったのは夢にして欲しくはないが、でも今はきっと朝見てる夢なんだ」
「もういい加減に現実を受け入れたらどうですかい、ダンナ」
 ドブネズミはしゃがれ声で歌うように言った。
「私は、一刻も早くダンナを我々の世界に連れて行かなきゃならないんですよ」
「だから、何度も言ってるだろう! 俺はたかだか一刑事に過ぎないんだ」
 翔は、現実にすがるかのように、服のポケットに常に携帯している警察手帳を確かめながら叫んだ。
「でも、よくあるおとぎ話の常として、ダンナは私どもの世界じゃあ必要な人物なんですからね」
 教え諭すかのようにドブネズミ。
「ダンナが『行こう』とおっしゃってさえ下さったら、今すぐにだって出発できるのに。ああ、可愛そうな国王陛下。朗報を待ち望み、今もお城で戦っていらっしゃる」
「俺はよくあるおとぎ話には興味がないんだ」
 ドブネズミの真向かいに腰をどさっと降ろし、頭を押さえる。
「そうだ、これは夢だ、夢なんだ。ネズミが喋るわけないし、そうだよな」
「現実はしっかり見なきゃ駄目ですぜ、ダンナ」
 しっかり耳を塞いでみるが、その声はきんきんと彼の鼓膜を突き刺した。
「私は現実、私がダンナの前にいるのも現実、ダンナが必要なのも現実。ダンナのポケットにその黒い手帳が入ってるのとおんなじぐらいにね」
 ネズミは、舞台劇の役者ででもあるかのように、偉く大仰な口調で言うと、小さなビーズ玉のような目で青年を見上げた。